■テロワの表現 2007.06



テロワの表現とは一体何か?

“この土地の表現”というテーマは

あまりに範囲が広すぎる。

=この土地の食材を用いた料理

これは正解であり、間違いだ。

この土地の食材を用いた、つまらない皿は、

飽き飽きするほどあるからだ。

 

故に“想像力、そして創造性”の言葉が加わる。

もっと云うとこの言葉があって始めて

この土地の表現なわけで、特産物を使った料理とは

全く意味が違う。

そこで暮らす人間なわけだから、暮らしたが故に感じられることがあるのだ。

例えば、なんでもいいのだが、

凍えるような寒さや雪かきの大変さなど日常を通した、北海道の冬の厳しさや

故に待ちこがれる春の訪れ、短い夏、紅葉の美しい実りの秋、

その四季折々の中で育まれる自然を常に感じ、実際に畑を見、

山を歩き、川の流れや音を聞き、空気の質感を肌で感じながら

様々なことをイメージし自然のもとに何かを表現する。

 

この土地を愛し、この土地を離れず、

この土地から皿を表現する意味とは、そういうことだ。

しかし、土地に根ざした料理とは非常に言うのは簡単で

作るのは難しい。

 

それは、何十年もかけて作り上げるものだと思っている故、

テーマにしているのだ。

 

独り事を閲覧すれば、アイデアは浮かんでは消え、それを日々繰り返している。

ヒントは沢山ある。

単に美味しいものであれば、瞬時に100は浮かぶ。

ルール無用の何でもありと言うのであれば・・・

そこには美意識も無ければ、節操もなく、文化も無い。

そのジャンルに固有されている世界感を表すことができなければ、

それは悪戯であり、全くの消耗品だ。

そして、悪戯なアイデアは遊びの延長でしかなく、

誰の心にも留まることなく、排泄されるのみだ。

一夜の戯れの小道具か、食欲の捌け口となる食い物。

私は、紙一重でそこをかわしたいと願う。

分かっているが故、消耗していく自分が怖い。

紙一枚下には、そんな世界があるのだから。

自信なんてものは錯覚であって

確かなものは、勤勉に励むことで

築く他無い。

しかし、勤勉さだけではどうにもならないこともある。

何事にも捕らわれない豊かな想像力を生み出す力は

日常の中で養われるものだ。

そして、生れもって備わる類のものかもしれない。

私は、この土地の人間として

プライドがある。

それは、愛着と言う言葉以外で表現できない。

誰に押し付けられたわけでもなく、自分として

この土地を選び、ここに住んでいる。

それが、愛であり、その愛情は確実に

皿へと繋がるはずだ。