■ 感性 2007.05
素材の中に閉じ込められている可能性を 鋭い目と愛情を持って見つけ出し、その資質を最大限引き出す能力こそが 感性であって、何も飾り立てることでは全く無い。
斬新な組み合わせや目を見張るような盛り付けばかりが 注目されがちだが、そんなものは取るに足らない。
自然界に存在する、その尊い生命に対するリスペクトこそが 創造の源である。 自分が捉える価値のあるクリエイトとは 内面の具現化であり、技術を切り貼りすることとは違う。 故に行き詰まりを感じることがあるのは モノを捉える自分の精神に曇りがあるからで そこがいつも磨かれていない限り、 知識、技術だけでは何も生み出せないということだ。
また、料理というものは作者の中で完結してはいけないものなので 伝える先の満足感無くしては絶対に成り立たないものである。
作る側と受け止める側の喜びを共有できる作品以外で 料理として成り立つものは皆無だと思っている。 自分の場合、表現したいものは、今という時代じゃなくて、 今の自分であること。
切り取られた瞬間(料理)は、紛れも無く その時の自分を映したもので、それ以外の何者でもない。 周囲の流れを意識し、しがみ付いたり、追いかけていては 何も見えてこないし、根本的に意味がない。
内にあるモノを見出せなければ アイデンティティーは失われる。
独自性にこそ価値を感じている自分にとって それは必然であり“意味”そのものだ。 そこに絶対的な意味を感じていることが 自分の独自性なのかもしれない。
“感性”という曖昧なコトバは、様々なイメージを 人に抱かせるが、芸術的な盛り付けだとか 奇抜な組み合わせだとか、表面的なことばかりで 本質的なことをイメージできる人は少ない。
結局は本質を見出す力こそが感性そのものなので 感性のない人には、このように文書化しても、 活字から真意を読み取れないので “見えない”人には何をしたって無駄ということだ。
パブロ・ピカソの初期に“青の時代”と呼ばれる一連の作品がある。 その中に盲人をテーマにしたいくつかの作品があるが、 ピカソは、目の見えない盲人だからこそ 見える世界があるのではないかと思ったのだろう。 目が見えるということは 世界が広がっているように思えるが 同時に、本質を見えずらくもしている。 |