■ 土について 2007.03

 

その畑は、とても日当たりのいい場所だった。

しかし、残念なことに地代が高すぎで

フツウに値付けをしても採算があいません。

採算が合うようにと無理な作物を無理に育て、無理に量を増やせば、

沢山の肥料と水を必要とし、そして多くの農夫も必要です。

コストが掛かっているからと言って

そのまま、値を載せても消費者は満足しません。

何故、満足してもらえないかといえば、

商品価値に直接反映されない、過剰なランニングコストは

消費者にとって見えないモノであり、何故高価であるのかという

理由付けが明確でない限り、売価と商品価値のバランスは崩れてしまう。

高価でも売れるものには、それ相当の価値があるわけで

その価値を生み出す行為こそが“仕事”なわけです。

 

故に、導かれる答えは簡単で、何故売れないのかというと

付加価値を付ける為の工夫がゼロだからです。

だからといって、売れなければ野菜は腐ります。

売れないから、半ば腐っているモノを価格を落とし

無理に売りさばけば、価値は無くなり更に信用を失います。

コストが高いだけで工夫のないモノを安く沢山売ろうにも

その様な商品は沢山売れません。

残念・・・

 

結果、薄利少売なわけですから破綻します。

このような場合、様々な後付けの言い訳が存在しますが、

何のことはなく、始めから

単に“土が腐っていた”のです。

腐った土からは何も生まれてはきません。

土を作るには時間がかかります。

また、相当量の愛情が不可欠です。

日々、激しい祈りの中で、

健全な土は保たれるのです。

最も大切な部分を端折り、

目先の利益ばかりを追いかけるが故、

土が腐っていることにも気づかず・・いや

気づきながらも、無理な生産体制を改善せず、

必要以上の肥料と水を与え、安い賃金で農夫を雇い

そこで作られた愛情も無く、水っぽく、ボケた野菜は

ひとつの意思も持たず、ただ消費されていくのみで、

誰の心にも響かず、消耗された様々なエネルギーは

無へと変換され、何ひとつ報われること無く終焉をむかえる。

土が腐っているとはいえ、あと、5年は持つはずだった、その畑は

様々な悪循環により、荒廃し

既に今は、誰の手によって、どんな種を撒いても

何も育てることが出来なくなってしまった・・

 

 

La terre de la vie- Moisson“ Hommage a la terre ou la vie reside

命の土-収穫”生命が宿る大地へのオマージュ

 

こんな料理が僕の頭の中にあった。

それぞれの野菜について随分と長い時間、考えていた。

表面的な部分でのイメージが固まり、パソコンで構成をまとめ、

試作に入る。そういった、いつもの製作プロセスを経ていくわけだけど、

その中で、もうひとつ何か、本質的なメッセージが欲しいなと思った。

今の自分が伝えたいこと、伝えるべき想い、最も関心を示し、感動しているもの・・

そう思った時“土”をプレゼンする発想が湧いてきたんだけど、

土や大地をモチーフにした作品は、今や多くのクリエイティヴなシェフたちが既に

発表しているので、僕はストレートに土そのものを出そうと・・。

基本的な考えとして、この皿の位置づけは“料理”ではなく

野菜をテーマにしたコースという大きな流れの中での、サプライヤーであり

言葉ではなく物質としての、無言メッセンジャーあると。

それは、ある種のユーモアでもあるし、問題提議である。

そして、考えるものではなく、味わい、感じるものであって欲しい。

又、ある一つの考えを押し付けるものではなく、それぞれの食べ手が

様々な感性で色々なことを感じて頂ければいいなと僕は思う。

 

そして、その土をウチの契約農家に分けて頂こうと思い電話をし、僕が

“いつもの野菜と一緒に土を1キロほど、分けて欲しいのだけど、いいですか?”と言うと、

暫く沈黙があり、彼女が小さくこう言った“何に使うのですか?”

“えーと、料理の中のプレゼンで使いたいんですが・・”そして、また沈黙があり

“分かりました、石井さんの頼みなので了解しました・・・土は私の命ですから・・・”

と言って電話を切ったんだけど、その時の会話の中で僕が感じたものというのは

想像を超えており、大切なものだと十分認識して、お願いしたにも関わらず、

僕は、触れてはいけない領域に入りこもうとしてしまったのかな・・という

思いに駆られた。

しかし、このプレゼンの意味の本質的なところは正にそこにあることも同時に実感した。

僕は、その土を見て、香りを嗅ぎ、野菜を掘り起こし、口に運ぶという行為によって

様々なことを感じて欲しいと思うし、その疑似体験の中から得られることは

相当に価値があるんじゃないだろうかと思う。

単に、美しく美味しく料理された野菜を食べることだけでは、見えてこない

領域があり、その向こう側にある人の祈りや自然の尊さを感じることが

大切であり、そう感じることのできる人は豊かであるとも思う。

ミュゼのシンボリックな料理“ミュゼのサラダ、大地のクリエイション”を

食べる前にプレゼンされるわけだけど、

美味しさを求めること、美味しさの向こう側に

隠された普遍的な真理が存在するわけです。

 

文の最後に、一言。

送られてきた“命の土”には、こんなメッセージが添えられていた。

 

 

 

土について・・・

「作物は、土だけで出来る訳ではありません。

その土地に吹く風、水、光の強弱によっても変わります。

又、土も何を入れるか、何を育てるか、

どんな菌がその土地にいるかによっても変化するものです。

全ては土から始まりますが、土を作るには、様々な要素や

人の力、自然の力が必要です。

とても、人の力だけでは思い通りの土には育たないし、

これでいいという終わりがありません。

92才のじいちゃんが、この地に入ってから

大事に育て、受け継いできた土です。」

池守 美穂

 

 

 

これが真理であり、つまりはそういうこと。

全く関連性の無い、2つの文書を挙げてみた・・

その2つの文を点とし、点と点を一本の直線で繋いでみる。

その直線の両端に矢印を付けると相対する2つのベクトルができる。

一見関連性のない事柄も、実は繋がっており

真逆に向いたそのベクトル方向は、この世の在り方を端的に示している。

 

元は同一ライン上に存在しているということだ。

どちらを選ぶか・・・・

 

それも言わずと知れている。

 

つまりはそういうことだ。