■レストランについて
2005年のオープン以来、テーマとなっているのは
《この土地をいかにして表現するか》
そして《食とアートの共存》このふたつである。
ただ、それ以前にレストランにおいて最も重要なことは、
シンプルに【料理が美味しいかどうか?】
そのひとことに尽きる。
たったその一言の為にレストランは
存在すると言っても過言ではないし、
レストランにしか表現できないことを考えた時
“食べる”という行為なくして何も語ることができない。
アート的な要素や土地固有の表現は、
レストラン以外の創作分野でも行うことができるが、
美味しい料理を食べる感動とそこに付随する付加価値を総合的に
体験できるのは、レストラン以外には無いのです。
■素材について
素材を画家でいうところの絵具に例える人もいるが、
実はそれとは少し異なる。
画家が絵具という物質から
大きなインスピレーションを得ることは稀であるし、
その物質の本質自体をメインに作品を創り上げることも稀だ。
画家は、こころに浮遊するイメージを掴まえて、
如何にしてそれを具現化するか?がメインである。
我々、料理人は食材そのものからインスピレーションを得たり
その食材の背景を深く知ろうとしたり、
また、食材そのものが本来持つ固有の美味しさを出来る限り
純粋に表現し感動に繋げたりする。
基本的に、料理の本質的な感動部分の大半は
“素材の中に在る”
表面的なテクニックやヴィジュアル的表現は、
常に食材の次にくる要素である。
料理人の価値とは、素材と真摯に向き合い、
その素材が持つ最も魅力的な部分を
如何にして引き出すことが出来るか? その感性だと思う。
それはあたかも写真家のように、
モデルに対してどの表情が一番魅力的で、それを引き出す為に
どのアングル、どんな光、どんな背景が合っているのかを選択し、
ファインダーを覗いたなら、それらのバランスの中で最も
最高の瞬間にシャッターを切るような・・・
そんな感性だと思うのです。
だから、僕は常に感性を研ぎ澄まし、
そして最高の素材を探し続けているのです。
■火入れについて
《火入れ》という技術は、時代と共に変化してきた要素でも
特に美味しさと直結したテクニックであるように思える。
その象徴的と言えば、かのアラン・パッサールの出現だと思う。
そのキュイッソンは、瞬く間に世界を席巻し、
一大ムーブメントとなった。
火入れの難しさは、予熱などを含め常に変化する
動きのある調理であることもあるが、
それ以上に今思うことは、その素材に適した火入れかどうか?
という部分だろう。
それこそ、昔はタンパク質さえ固めずにキレイに火入れすれば
美しい断面が見え、素晴らしいとされたことも
あったが、そんな時代はとっくに古く、
もっと深く火入れした方が良い素材もあるし、
逆にさっと炙る程度が良い場合もある。
食感や香り、抜きたい水分量など、
求める素材の美味しさを表現する上で、実に様々である。
そして、時代性の中で言えば、洗練の火入れを経て、
プリミティブで素朴な火入れにも注目が上がっている。
現時点での結論を言えば、ここは日本であり、
日本の素材を使うことを前提に火入れを組み立てると、
素材ごとに適切な火入れのテクニックを
選択することが最も望ましい。
僕は、炭も薪火も使い、スチームコンベクションも
オーブンもサラマンドルも・・・なんだって使う。
その時の素材ごとに最も理にかなった
シンプルなアプローチを常に探しているのです。
■器のこと
かつてフランス料理の器と言えば相場は決まっていた。
平たい皿かクープボールのようなもの、それ以外は稀。
ほんの数種類の皿があり、シンメトリーの洋風の
パターン様式の柄が入ったものぐらいしか存在しないし、
それを好み、良しとしていた時代があった。
しかし、そこから徐々に変化し、カタチも変化し、
素材も磁器から、ガラス、土もの、金属、石、木、その他etc
といった具合に、多種多様なテーブルウエアが登場してきた。
そうした時代の変遷を見てきた自分も様々な器を試し、
あらゆる表現の可能性を模索していたが、ある時少し
違和感を感じた。料理の盛付の中で無理なデザインや
造形を生み出すと味を犠牲にしてしまう場合も出てくる。
しかし、表現の可能性や
デザインすることの興味、楽しさは捨てられない。
そんな同時期に念願の夢であった陶芸を始めることになり、
自分の中で全てが腑に落ちた。
料理とは違う、もう一つの表現を手に入れたことで、
僕は料理自体に無理なアプローチを仕掛ける必要がなくなった。
出来るだけシンプルで素材のピュアな一面をフォーカスする
本来の自分のスタイルを自然に表現できる。
器の制作は、僕にとってもうひとつの人生となり、
持て余していた創作意欲の行き場であり、僕の料理を支える
大切なパートナーとなった。 料理の付加価値を高め、
自在にコントロール出来る為、
味と直結した寸法に仕上げることも出来る。
以来、作陶と料理創作は同時進行に行われ、
自身のスタイルとして定着した。
様々な表現の分野で陶芸ほど自分にフィットし、
自分が求める方向に掘り下げられるものはないと思うのです。
■北海道固有の文化
ひとつのテーマとなっている
《この土地をいかにして表現するか》
という言葉にどんな意味があるのか?
今でこそテロワールの表現というワードが
ひとつのトレンドになっているが、
そんな表面的なことを追いかけても意味がない。
僕の中で最もシンプルな答えは、
《リアリティーの追求》それ以外にない。
要するに僕は、この土地のことぐらいしか知らない・・・
旅行で行った土地からインスピレーションを
得ることもあるだろうし、その土地の人たちとの交流から
生まれるものもある。
人によっては、そうした連続で自分の料理観が築かれる人も
いるだろうし、場合によっては気に入った土地に住み着く人もいる。
まさに、人それぞれのリアリティーがあるわけです。
僕が、身近な土地、身近な素材に愛着を感じ、そこに感動し、
それによって生まれた感情を料理に繋げる。
そんなごく普通の当たり前のことをテーマにしているが、
その当たり前の先に見えてくる世界が在るように思っているのです。
この北海道という土地を深く知ろうとする過程で、
色々なことに気づかされる。
知れば知るほどに、こんな日本の片隅の田舎を掘り下げるだけでも
無限とも思える情報が溢れている。
たったひとつ、裏山の森を調べるだけでも
一生かかっても終わりはないだろう・・・
人には様々なタイプがいて、田舎を出て世界に羽ばたき、
広く多様な文化を吸収したいと思う人もいれば、
一生涯、自分の土地に留まり、
その限られた世界の中に
身をうずめて深く何かを知ろうとする人もいる。
僕は僕の人生の中で、この土地を愛し、
この土地を誇りに思い、この土地固有のありさまのようなものを
自分なりに掴もうとしている。
それは、所謂その土地の食材を使うとか、
アイヌ文化をなぞったものではなく、
自分がこの土地に生まれ生きて感じたことをその都度表現し、
掘り下げて行きたいと思っているのです。
この土地でしか出来ないこと?
そう思うことも大切なのですが、
この土地で自分が何を感じられるか?
そうした個人の思考の連続の積み重ねの先に、
この土地の新しい文化ができるように僕は感じています。
■水への執着
最終的には、水が美味いかどうか?
かなり乱暴な言い方ですが、
究極的にはそこに答えのようなものが在るのかもしれません。
《水を調理している》
そういう言い方に対してピンとくる感性があるか?ということです。
例えば、フランス料理でいうところのフォンやジュは、
水に対して何かしらの要素を移している。
僕の感覚では
《香りと旨味を主軸にした様々な成分を移動させている》
という感じです。
焼くという行為は、水を抜いている。
当然、それ以外にも様々な作用も起きているのですが、
水に対するアプローチを軸に料理全体を考えることは、
僕の特徴でもあるし、水という素材そのものを
最も重要に考えているもの自分の個性だと思っています。
その水が美味しいか?という問いは、
異性の好みのようなもので、人によって様々です。
もし、水が合わない・・なら、
あなたとの相性が合わないという、それだけのこと。
では、料理がすべて好みだけで選別され評価されているのか?
というと、そうではない。
普通に飲むことも出来るが、
美味しいとは誰も言わない水というのがあるだろうし、
都会の水道水を美味しいと言って有難く飲む人もいない。
誰もが差し支えなく
美味しいと感じられるレベルの水というものがある。
それを《水準》という。
ある水準を超えたレベルのものが、
初めてスタートラインに立ち、評価を受ける。
好みの問題というのは、その一定水準以上の中でのみ意味を成す。
料理の善し悪し、美味しい不味いを難しく考え過ぎで、
水に置き換えれば、直感的に誰もが判断できる。
それぐらい《水》という物質が、人間にとって
最も違和感のない《料理》なのだろう。
水という物質は、この世で一番繊細な《食材》である。
ひと粒の塩だけで味が変わる。
一枚のセルフイユを浸しただけでも味が変化する。
昆布を入れただけで、水ではなく出汁へと変化する。
我々は、水の惑星に生まれ、水と共に進化し、
その躰の殆どが水で作られている。
常に生命と直結している
神秘の物質である《水》こそが素材を生み出し、
料理を生み出している。
幻想や宗教的な意味ではなく、ましてや思い込みでもなく、
水という、とてつもなく稀で
神秘的な物質の中に料理の根本を見つけ、
その意識下の中で調理することの意味を僕は大切にしているのです。
■フランス料理というジャンル
《枠の中へ収まること》
ここ数年の自分のテーマかもしれない。
かつて最も自分が嫌ってきたのが、
ある固有のジャンルにカテゴライズされること。
しかし今はどうだろうか?
むしろ特定の枠に収まり、その世界観を守りつつ、
新しいものや自分らしさを表現することの方が価値があり、
真っ当で、意味のあることかもしれない。
食のグローバル化が進み、現在のファインダイニングにおいて、
国籍を明確に問うような事は、あまり見受けられなくなり、
そこには、ガストロノミーというジャンルが在るだけだ。
何料理を食べたい・・
という漠然とした動機よりも、誰の料理が食べたいというように、
そのシェフ、その店の世界観を堪能することが人々の目的となった。
そういう状況の中で大切になってくるのは
“アイデンティティ”だと思う。
意識の中でどの世界に身を置いているのか?
どういう“つもり”で何を行っているのか?
という問いに対して明確な答えを持つこと。
食の多様化が進めば進むほどに、枠やルールが曖昧になり、
時にデタラメなものも生まれる。
それらは、斬新さや個性、本質的な新しさからは遠く、
単にその場の勢いで目新しさを狙ったに過ぎない。
正当性や知性、品性が欠落している表現に
真の感動は生まれないように思う。
自分の意識は何処に存在しているのか?
僕は、北海道で生まれ、そして育ち、子供時代に日本の食と
西洋の味覚を知り、プロになってから
フランス料理の技術体系を学び、そのメソッドに従いながら、
料理を自分なりに構築してきたというプロセスがある。
その過程の中でどんな意識が育ったのか?
料理に反則はない・・と思っている人がいるかもしれないが、
僕は、あると感じている。
一流のサッカー選手が、
圧倒的なパフォーマンスで世界を席巻しようとも、
それは、サッカーの枠を超えたプレーでは絶対にない。
誰しもに共通した制約は“ルール”である。
そのスポーツがそのスポーツであり得る最低限にして
絶対である境界線を誰もがはみ出すことなく、
最大限のプレーをするからこそ、
それは素晴らしく、そして美しいと感じる。
僕の中には、様々な食の知識や技術があるにせよ、
結局のところフランス料理という概念から
逃れられないだろうし、そのジャンルが持つ固有の方向性を
肌で感じながら思考しているように思う。
しかし、ある種の境界線の存在を認識していたとしても、
それが発想の制約にはなり得ない。
表現には、常に自由と不自由が同居するが、
あるアイデアをカタチ作ろうとした時、
僕の手は、全ての概念や制約から解放され、
その瞬間に一番大切だと感じたものをカタチ作るだろう。
その僕の思考の痕跡こそ《個性》と言われるものだと思うのです。
結局のところ、料理表現の根幹部分で
フランス料理の世界観を捉えているのなら、
どうあがいてみたところで、それはフレンチにしかならないし、
逆にそれを深く理解せず、
身に染みていないならば、それ風にしか成らない。
ジャンルや制約というものは、ある意味ナンセンスでありながらも、
その世界でしか成しえない高度な表現というものもあり、
善し悪しを断言できることではないが、
もし本質を追求するのであれば、
その《枠》の意味を自分なりに深く理解する必要がある。
そして、最後に残るものは
《自分》でしかないと気づくように思うのです。
■アート
アートというものを頭で理解している人はいるが、
感覚で捉えている人は多くない。
アートとは言わば、
浮遊する思考の堆積であり、時にそれは実体として表面化するが、
その殆どは、表現者の中に埋もれている。
カタチもなく実体もない浮かんでは消える思考のエネルギーは、
時にして自分を超え、他者を巻き込み、生命の根幹へ問いかける。
生きていることへの不確かさと不安。
或いは生きていることへの歓喜。
相反する光と闇は、常に同居し葛藤を生み出す。
我々料理人は、常に光を掴み取ろうと今まで必死で生きてきた。
レストランというステージには闇は必要ない。
必要はないが、それは存在しない・・という事ではない。
新しいことへの挑戦、感動を創り上げる為のプロセス、
神経を研ぎ澄まし、
料理に命を吹き込む。
我々が日々注ぎ込んでいるエネルギーは、光と闇を生み出している。
料理がアートなのではなく、
料理人の生きる過程の中にこそアートが潜んでいる。
それを頭で理解するのではなく、
直感として掴み取ることがアートなのだと僕は思うのです。
■完全なるもの
完全なる料理を作ることは、とても難しい。
厳密に言えば不可能だ。
何故かというと、
自然界に完全なる個体(食材)が存在しないからだ。
それは概念上のみに存在し、
それがプラトンが唱えたイデア説である。
なのである意味では、
思考の中でのみ完全な料理を組み立てることが出来る。
だがそれは、机上の空論にしか過ぎない。
完全なものを追求したい。
しかし、それは無理かもしれない・・
そのプロセスが自分の人生である。
僕が、イデアという概念に執着する意味はそこにある。
そして、僕は日々自分と向き合い。そして失望している。
では、完全に近い料理とは何か?
まず素材をよく吟味することだ。
多くの食材の中から良質な産地の良質な個体を選び、
更にその中でも得に良い個体の最上の部位を切り出す。
そうした素材には生まれ持っての気品と香り、
上質な味わいが備わっている。
我々料理人は、神経を集中させ出来る限りの下処理を施し、
丁寧かつ正確な技術を持って調理に当たる。
包丁により特定の食感を得る為にある形状に切り出す。
そのままアセゾネをするだけで十分なのか?
或いは、あるポイントまで火を入れるのか?
その火入れは、何℃まで必要で熱源は何が適しているのか?
ひとつひとつのパーツが完全に近い状態を得たなら、
次はその素材を何とかけ合わせるのか?
引き算で得る美味しさを狙うか?
それとも、足すか?或いは、かけるか?
出来る限りの完全を求める場合、
構成要素は少ないことの方が成功率は高い。
固有の味わいの素晴らしさは、
要素を足すことよりもポテンシャルを引き出すことにより
表現されることが多いからだ。
完全に近い料理を頭の中で想像し、
様々な方法を模索し、実際に組み上げてみる。
その試行錯誤の中で最も感動に値した料理が
ソレに近い料理と言えるだろう。
しかし、それだけではまだ不十分である。
我々人間という生き物は、
口や鼻だけで美味しさを計るわけではない。
最上を味わう為には《環境》が必要だ。
空間が生み出す空気感、
実質的に快適な湿度と温度、音、眺め、皿の形状や質感、
カトラリーやグラス、サーヴィスする人間の愛情・・・
挙げればキリがないほどに、人は食事をする中で様々なことを感じ、
そして、それらも味に関係している。
完璧な素材、高度な技術、圧倒的な知識、卓越した感性、
強靭な身体、健全な精神、不備の無い環境・・・
そうした要素の全てが何ら落ち度なく、
全てが正しい方向に向いてひとつの塊りとなった時、
もしかしたら人は完璧に近かった・・・と感じるかもしれない。
何事も、闇雲に手を伸ばしたところで何も掴むことなど出来ない。
もし、何かを成し遂げたいと思うなら、
その《姿》をイメージすること。
想像を出来ないことを
人は、創造できないと僕は思うのです。
■独奏
オーケストラは、素晴らしい。
しかし、僕が好きなのは、独奏かもしれない。
絶対的な音感を持つ高名な指揮者は、
完璧な指揮で各セクションの音色をコントロールする。
幾重にも重なり合った音は、
単奏では成りえない音色を表現する。
オーケストラは、ある意味《音の贅を極めた》表現とも言える。
しかし、僕が表現したい世界は
もっと個人的でもっと瞬間的なものだ。
日々移ろい変わっていく世界を瞬間的に掴まえて、
その場で出力する。
それはジャスのアドリブでもあり、
独りでメロディーを奏でる奏者の感覚に近い。
その時、その瞬間に感じたものを表現できる世界にこそ
自分の長所が発揮できる。
あらかじめ設計された指示書き通りに
寸分たがわず料理を組み上げる世界の中で、
僕の存在は、あまりに無力だ。
人には、それぞれ持って生まれた長所と短所があり、
個性の生かし方も違えば、何に対して感動するかも異なる。
宮廷のような空間で多くの人を介して贅を尽くした食事には、
その世界の価値があり、そこでしか生み出せない感動もある。
もう一方では、職人ひとりがカウンターに立ち、
全ての工程をこなし、創り上げる世界も在る。
この上ない最高を差し出したいという想いは同じであっても、
そのプロセスや表現の仕方によって、全く違う世界を創り出す。
僕の性分は、根っからの《独奏者》であり、
その限られた世界の中で
最大限を追求したいと思うのです。